プロフィール
PROFILE
金光 健真(かなみつ けんしん)
【誕生日】1969年1月8日生まれ
【出身】熊本県鹿本郡菊鹿町(現山鹿市)出身
【星座】山羊座
【血液型】B型
【好きなもの・好きなこと】
お笑い(特に松本人志)、総合格闘技(特に堀口恭司選手)、音楽鑑賞(クラシックからヘビーメタルまでほとんどの全てのジャンルが好きです。)
あとは、読書、旅行、筋トレ、ジョギング、自然の中でボーッとする、動物と触れ合う、植物を育てることなどです。
【経歴】
スポーツクラブで働くこと28年。
日本でパーソナルトレーニングがポピュラーになり始めた初期の頃から、トレーナーをやっておりました。
現在は結婚し、2児(小学生)の父親です。
幼少期
本当に緑の山しかないところで、東京に出てくるまでは、ずっと田舎もんコンプレックスがありました。
当時の私の家族は、両親とひいおばあちゃんとおじいちゃん、おばと姉と私の7人家族でした。今では4世代家族は少なくなりましたね。
幼少期に優しいおじいちゃんとおばあちゃんと過ごせたことは、私の宝物です。おじいちゃんは、ニコニコしながら、よく戦争の話をしてくれました。
小さい頃の私は、家族の前ではバカなことするのに、他では緊張して喋らなくなるシャイな子供でした。
さらに田舎もんなのに、虫が苦手だったのです。
そんな私が小学1年生になったばかりの時に、88才の高齢で、私の面倒を見てくれていた、ひいおばあちゃんが亡くなりました。
生まれて初めて、身近な人の死にあいました。私もまだ6才でしたが、『人はいずれ死ぬんだなあ』と怖くなった思い出があります。
学生時代
小学校から中学校までは、田舎の町で過ごしたので、大自然の中で伸び伸びしていました。
高校時代からは、当時プロレスラーのタイガーマスクに憧れて、空手部に入りました。
拳を鍛えるために、巻き藁(まきわら)という木に藁を巻いた固いものを素手で叩き、血を流しながら鍛えるような、熱くてアホな少年でした。
血のついた巻き藁を見ながら、『俺、頑張ってるな』と自己満足に浸るようなヤバイ少年でした。
実は、中学時代は、自分の好きな部活がなく、思うように活躍出来なかったので、高校の空手こそは、結果を残そうと一生懸命でした。
人一倍努力しました。ひとりで朝練もしました。
しかし、結果は全くついてきませんでした。
悲しかったです。
でも今となっては、ひたすら空手に打ち込んだあの時代も、とても愛おしいです。
そして、この頃から自己流で、筋トレを始めました。
身体を鍛えて、身体が変わってゆくのが好きでした。
浪人時代
実は、私は1年間だけ浪人しました。
無駄に親にお金を出してもらって、申し訳ないと思い、この1年は、自分史上最高に勉強しました。
この1年間ほど、全てを捨てて努力したことはありません。
睡眠時間を5時間に削り、起きている時間は、風呂に入ってる時もトイレの時も、ブツブツ暗記していました。
自分にまだ可能性があるんじゃないかと期待していたんです。自分の可能性に賭けたんです。
しかし、結果は滑り止めにのみ合格。
その現実を受け止めることが出来ず、希望を失くしたまま、大学に行きました。
結果は出ませんでしたが、自分史上、最高に努力出来たことは、今も誇りになっています。
大学時代
再び空手サークルに入ると、いい仲間といい先輩に出会えました。
熊本から出てきた田舎者の私でしたが、めちゃくちゃ気が合う仲間ができたんです。
私は、とてもラッキーな男だったと思います。
しかし、色々なことがありまして、大学2年の時に『うつ』になってしまいました。
私は、冗談ばかり言うようなお調子者に思われますが、内心はナイーブな所があります。
うつになってしまった原因は、自意識過剰な性格とマイナス思考の癖だと思います。
自分に対する期待が大きい分、失敗するとひどく落ち込み、自信を無くすのです。
当時は、頑張ったのに受験で希望するところに行けず、空手も思ったほど強くなれなかったことがうつになった大きな原因でした。その後、2年間くらいうつから抜け出せず、一人で苦しい思いをしました。
でも、今思い返せば、「あの頃の仲間たちも、きっとそれぞれに悩みを抱えていたのだろうなぁ。」と思います。
自分だけが苦しいと思い込んでいたので、誰にも相談できず、病院なども行かず、苦しさが長引きました。
しかし、私がとったある行動で、このうつから意外な方法で抜け出したのです。
この頃、空手もやめて、アルバイト以外は、アパートに引きこもっていましたが、唯一楽しみがありました。
その頃、深夜に放送されていた『青春!島田学校』という番組を観ることです。
この番組は、島田紳助さんが校長で、芸能人と一般人の若者が生徒になり、いろんな職人さんの職業体験に行くというものでした。
毎週楽しみに観ていましたが、新しく生徒を募集するという企画で、なんと私がオーディションに合格したんです。
4次までオーディションがあり、沢山の個性的な若者がいる中で、私はガチガチに緊張して思ったように喋れませんでした。ですが、島田紳助さんに、逆にテレビ慣れしていない所を評価して頂き受かりました。
うつで、自分に全く自信を無くしていた時に、私に何が出来るのかではなく、不器用で緊張しいの素の私自身を良いと言ってもらえたんです。
この出来事で、自分では、マイナスなところだと思っていた、人一倍緊張する性格を、『とても純粋でいい!』とプラスに捉えてもらったことが自信になりました。
そして、少しずつ生きる希望を取り戻すことになりました。
社会人
その後、なんとか大学も卒業出来ました。
私の卒業はバブル期でしたが、その頃の仲間と同じように大企業は目指しませんでした。
なぜか全く魅力を感じなかったのです。
海外留学(ワーキングホリデー)
一年間で、英語と空手を極める!という目標を立て、頑張りました。
その後、タスマニアという島でリンゴを収穫するバイトをしました。
私は半年ほど日本語を禁止して生活していたので、無性に日本語が恋しくなりました。
そのため、出会った日本人とはすぐに仲良しになりました。
そして、仲良くなった2週間後に、仲間5人で海水浴に行きました。
タスマニアの海は、青く輝き、波は穏やかでした。私は、泳ぎが得意で、海を満喫しました。
仲間のひとりに泳げない男性がいました。そして、海に入る直前、彼に『もし、僕が溺れたら助けてね。』と冗談ぽく言われたのです。
彼は、膝くらいの浅瀬で泳いでいたので、私は大丈夫だと思っていました。そして、私は少し寒くなったので、海から一旦上がりました。
浜辺では、彼以外の4人で他愛もない話題で爆笑していました。夕方の4時くらいです。
15分くらいして、まだ彼が上がってこないことに気づいた私たちは、まさかと思いながらも、彼を探し始めました。
しかし、結局、全く彼が見つからないまま日が暮れました。
罪の意識がある私は、自分一人でもと思い、警察とともに彼を探し続けました。
ただ、無情にも時間は過ぎました…。
それから、テレビや新聞社が来て大変な騒ぎとなりました。
生まれて初めての暗い経験です、真っ暗な海で捜索する警察を見ながら、それ以上に暗い自分の心がありました。
3日後、変わり果てた姿で、彼と再会しました。
その後、日本から彼の両親や婚約者が駆けつけた時には、私は憔悴(しょうすい)していました。
一緒に泳いでいた私は、彼との約束を守れず、助けてあげれなったのです。
しばらくの間、私はこの事件が現実だと受け入れられず、失意のまま帰国をしました。
スポーツクラブ時代
それから帰国後、好きな筋トレが出来るということもあり、スポーツクラブで働き始めました。
トレーナーをしながら、積極的にマラソンや、トライアスロン、水泳やベンチプレスの大会に出て、この頃は全て充実していました。
しかし、その反面、「これから自分はどうやって生きてゆこうか?」と、先が見えない状態でした。
再び放浪の旅へ
30万円の現金のみ持って、言葉の全く通じない国で、ヒッチハイクをし、1泊100円の安泊にも泊まりました。
そして、この旅は今の私に多大なる影響を与えました。
このアジア放浪で私は、『自分に特技なんて何もないと思っていたけど、私というひとりの人間だけで、色んな国の人に優しくしてもらえるんだ。』と気付いたのです。
裸一貫で生きてゆける。
お金もないし、地位もないし、どこの馬の骨かもわからない日本人に、出会う全ての人達が優しくしてくれたのです。
この経験があって、何もなくても、自分はどこでも生きてゆけるなという、静かな自信が生まれました。
演じることで自分と向き合う
そして、何を思ったか30才から役者の道を目指します。
役者は、30才から45才まで15年間続けました。
演技を通して、他人の人生を生きるということで、自分の人間性を磨けると信じてやっていました。
なぜなら、私は、役を演じるということは、その役への深い理解と共感、同情、愛などがないと出来ないと信じていたからです。
他人の気持ちが分からない人に、いい芝居は出来ません。
自分勝手な人は、役者には向かないと思っていました。
結果、私の役者としての代表作は、NHKの風林火山に出演したことです。
たったの5秒でしたが(笑)。
ドラスティックセラピストとして生きる決意
役者だけでは食べていけないので、トレーナーは25才からずっと続けていました。
私は自分に嘘がつけない性格です。妥協して自分の仕事を見つけることが、絶対に嫌でした。
そして、とうとう本当に自分がやりたいことと出会います。
45才の時に、現在の私の先生である矢野雅知(やの まさとも)先生に出会い、ドラスティックセラピストとして生きてゆこうと決めました。
矢野先生は、身体の様々なこと(医学的な知識やコンディショニング)についての知識や技術はもちろんのこと、人間性も素晴らしい方でした。
しかし、自分なんかにそんなハイレベルなものは無理だろう、矢野先生だから出来るんだ、と逃げていました。
でもやっぱりチャレンジしてみたい!と思ったのです。
そして、ついに自宅にてコンディショニングルームを開くことに至ります。
これからの夢、未来への展望
私は、50才になりましたが、今思うことは「みんなひとりひとりの役割は違う」ということです。
誰かの真似をする時期があってもいいと思いますが、結局、ひとりひとりが自分の魅力に気付き、自分が一番輝く場所を見つけられたなら、幸せなんじゃないかなと思います。
幸せといいますか、納得できる人生なんじゃないかなと。
誰とも比較する必要はありません。
人それぞれ違います。
世界中に、自分と似ている人はいても、同じ人はいません。
僕は昔、大切な友人を亡くした時に、そう感じました。
当たり前のことですが、『この世に全く同じ人は存在しないんだ』と。
私と出会う方、ご縁がある方には、私のこれまでの人生経験と知識、そして何よりも、私という唯一無二の人間(あなたもそうです)にしか出来ない、施術、コンディショニングをやってゆきたいと考えています。
私も、私の父や母、おじいちゃん、ご先祖様から、素晴らしいバトンをもらいました。
これからは、私自身が自分の子供たちや、ご縁があり出会う方々に、『未来への希望』というバトンを渡してゆきたいと思っております。
希望の未来を創るのは、私たち大人の役割だと考えています。